コラム

vol.1飯村の地名の由来と源頼朝

わが国が乱れていた平安時代の末期に 新しい時代を創ろうとしていた源頼朝(1192年に征夷大将軍になり 鎌倉幕府を開いて武家社会を作った)は、当分譲地近くの東側の道を良く利用していた。(この古道は 後に「鎌倉街道」と呼称される様になった)
当時の当地方は平家の支配下にあり、当分譲地の南側に平家の火打坂検問所があったので 頼朝一行は松明峠たいまつとうげのルートを選んでこの防衛ラインを避けていた。
ある時 雲谷の普門寺で休息をとっていた軍団は、夜半になった頃を見計り「たいまつ」を手にした修行僧の案内で松明峠の頂上まで案内をし、頼朝軍団はふもとの原っぱで野営をした。(現在の自衛隊高山射撃場あたりと思われる)
そこへ密告者の通報を受けた検問所の兵士達が、中島の部落(今の飯村南3丁目付近)方面から押し寄せて少数部隊の頼朝軍団を襲撃した。夜戦の不意打ちとは云え、頼朝軍団は堕落していた平家軍団の相手ではなく頼朝が圧勝したという伝説が伝えられている。この「伝説上の戦い」が事実とするなら、当分譲地は「源平合戦古戦場」の跡地ということになる。
この様な頼朝関連の伝説は豊橋市には下記の様に数多くある。

    1.駒止めの桜

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    頼朝が愛馬を桜につないだという伝説がある。
    この2代目の桜も台風によって折れてしまい、今は無残な姿になっている。
    (豊橋市 岩崎町 ゆめの子幼稚園前)

  • 2.鞍掛神社

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    上洛の際 源頼朝が「武運長久」を祈願して乗馬用の鞍をこの神社に奉納した。
    (豊橋市 岩崎町)

  • 3.葦毛いもう湿原

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    頼朝の愛馬「葦毛あしげ」は、松明峠からの急な下りで負傷したのかあるいは合戦の際に矢を受けたのかは不詳であるが 急死した為この湿原に葬られる。この伝説から 地元ではこの地を「葦毛湿原」と呼ぶ様になった。
    (豊橋市 岩崎町)

  • 4.手洗い池

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    頼朝軍の一行は ここで合戦の時に 血で汚れた手と刀を洗ったと云う。
    (豊橋市 岩崎町)

  • 5.松明峠たいまつとうげ

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    普門寺の修行僧は頼朝一行をこの頂上まで送り届け 安全を確認してから寺に引返した。(弓張山系 南端)

    ※当時の普門寺は三河地方随一の大伽藍で多くの修行僧がいた。又 江戸時代には100石の朱印地を幕府から与えられていた。

  • 6.自衛隊高山射撃場

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    頼朝一行はこの地で野営をしていて 平家軍から「深夜の奇襲」を受けたと思われる。そして当地に伝わる伝説によるとこの周辺地(西側)で「源平合戦の戦い」が繰広げられたものと云われている。
    (豊橋市 飯村町)

  • 7.火打坂検問所跡(平安時代)

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    火打坂は当地の交通の要衝であった為、この地に(当地は平安時代には平家の支配地であった)の番所があった。(右手の道は当時の鎌倉街道で後に江戸時代には東海道になった)
    (豊橋市 大岩町)

  • 8.普門寺

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    行基の開山で1300年の歴史を誇る当地の名刹である。頼朝軍団は平家の火打坂検問所を避ける為に この寺で宿泊した後 夜行登山の山越えをして難を逃れたと伝えられている。
    (豊橋市 雲谷町)

この源平合戦に勝利した頼朝軍団は、空腹を満たす為に朝食の準備をしていた近くの吉祥寺に押入り その食事を横取りした。頼朝はこの御飯のおいしさに驚き 「この御飯は旨い。この地は飯の村だ。」と云ったのが「飯村」の地名になったと伝えられている。
尚 その後 この寺(12間4面の大寺院)は頼朝軍団によって焼き払われたと云われているが(豊橋市編纂の「豊橋百科事典」による)頼朝はこの寺が今回の事件の密告者と考えたのであろうか。(もしかしたら普門寺の住職から この寺は「平家寄りなので気をつける様に」と云われていたかも知れない。)
又 当地にこの様な大きな寺が建てられたのも 財政面から考えて不思議であるが、飛鳥時代には聖徳太子(574~622)が当地の陶磁器を重用して外国の要人をもてなす際には当地の火打坂から取り寄せているし(当地周辺にはこの頃の古窯祉が多く残っている。)奈良時代の聖武天皇(701~756)は東大寺建立の際 渥美半島の瓦を使っているので、当地の「ハイテク技術」のお蔭でこの地方の産業は隆盛を極めていた為 お寺さんへの寄付が多かったのではないだろうか。

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